かっこいい大工の姿にあこがれて
かっこいい大工の姿にあこがれて
高校3年生となり、進路を真剣に考える時期。
自分の好きな事をやればいいという、父親の言葉も頭に浮かび、
自分は何をしたいのか?と、18年の人生を振り返り、色々と考えました。
そして導き出した答えが、「大工になる」
高校3年間で勉強した土木も、「地図に残る仕事」で魅力的でしたが、
もっとお客様に近い場所で仕事がしたいという思いと共に、幼い時からいつも見てきた、
木の匂い溢れる作業場で働く職人の姿
上棟式で真剣な眼差しで家を建てている職人の姿を思い出し、
自分もあんなかっこいい大工になりたい!
と素直に思ったからでした。
当時の遠藤建築店は、住宅の施工と管理を行う会社で、主に設計士からの仕事を請け負う工務店でした。
父親も叔父も根っからの技術屋の職人で、施工には絶対に妥協を許さない人。
そんな父親に、「大工になりたい」と伝えると、
「ウチに入ると甘えが出るから、外で最低7年間は修行してこい!」
そう言われ、父親が紹介してくれた親方の元へ、選択の余地なく就職先が決まったのでした。
昼は働き、夜は学校へ
昼は働き、夜は学校へ
就職先が決まり、大工を目指す事になった私でしたが、
これからの時代、技術だけで生きていけるだろうか?
本気で建築を志すなら、裏付けされる根拠と建築知識が必要じゃないだろうか?
そう思った私は、仕事をしながら建築を学べるところがないか、学校の先生に相談をしました。
すると、
ウチの高校の夜間の定時制なら社会人も通えるよ。建築を学べる2年間の専修コースがあるから受験してみたらどう?」
とアドバイスをくれたので、その場で受験を決意。
そして無事に試験に合格。
1995年の春、大きな夢と目標を持って社会人デビュー。
昼間は大工として現場で働き、夜間は浜松工業高校の定時制で建築を学ぶ日々。
就職先の親方は、
「仕事は教えてもらおうとするな!盗め!」「お前は不器用だ!常に人より努力しろ!」
が口癖のとにかく厳しい人。
半人前の自分が何か言えば、怒鳴られるのが当たり前。
就職して3年間、受け答えは「はい」の一言だけ。
時には失敗して、大工道具で頭を叩かれた事も。
今では本当の親のように慕ってますが、修行時代は本当に大嫌いで、いつか仕返ししてやろうと思ってました。(笑)
定時制の学校は20人程の同級生がいましたが、全員が自分より年上。
建築の授業はもちろん勉強になりましたが、人生の先輩達との休み時間の話しも、
授業と同じくらい社会勉強になったのを覚えています。
日々の暮らしは、朝7時30分には現場到着して仕事。
仕事が終わってから学校に行き、毎日帰宅すると22時。
そこから晩ご飯を食べ就寝。
友達が大学生活を楽しんでる時も、私は朝から晩まで建築漬けの毎日。
一番遊びたい年頃なのに、友達と遊ぶ時間はまったく無く、とても寂しく辛い思いをしました。
それでも、職人の技術と建築の基礎を学んだ大切な時間だったと、今では思っています。
修行を終え、遠藤建築店へ
修行を終え、遠藤建築店へ
2002年4月。
当初の約束の7年間の修行期間を終え、25歳で遠藤建築店に迎え入れてもらえました。
夜間の建築科に通っていたおかげで、23歳で二級建築士の資格を取得し、修行で大工としての基礎もできていました。
けれども大工は本当に奥が深い職業です。
引き続き父親の下で3年間の修行。
・和室
・階段
・墨付け
・手刻み
・丸太の墨付けと刻み
大工の修行も気が付けば10年。家一棟を難なくまとめる事もできるように。
しかし、28歳になった自分を見てふと、
「自分の人生、これでいいのか?」
と思うように・・・・・・
広い世界が見たくなり
広い世界が見たくなり
ずっと浜松市の南区で生まれ育った私にとって、海はいつも身近にあるものでした。
休日の過ごし方は、ほぼサーフィン。
サーフィンでは、サーフトリップと言って、良い波を求めて国内外に旅に出る事が普通です。
サーフィン仲間と話をしていると、
「インドネシアには船に乗って行くポイントがあって、波すごい良かったよ〜」
「街を走ってるバイクの数がすごいんだよな。」
「オーストラリアには、パドリングで渡って行く無人島のポイントがあって、人が少なくて最高だったよ~」
というような、海外の話題になることもしばしば。
そんな話ばかりが耳に入ってくると、ずっと実家暮らしで外の世界を知らない私は、
自分はなんて狭い世界に生きていて、小さな人間なんだろう・・・
そう感じてしまうことも度々あったのです。
いろんな国に行ってみたい
海外で生活してみたい
経験値を増やしたい
サーフィンも上手くなりたい
気持ちが抑えられなくなった私は、両親や周りの反対を押し切り、海外に一人旅に出る事を決めたのです。
期待と不安でいっぱいの中、オーストラリアに旅立ちました。
異国の地で一人暮らし
異国の地で一人暮らし
人生で初めて賃貸アパートを契約したのが、オーストラリアのゴールドコーストだとは、
自分でも想像していませんでした(笑)。
炊事・洗濯・掃除など、家事をする事も初めての経験。
暮らすためには仕事も探さなくてはいけません。
もちろん色々と経験をすることが目的の旅なので、大工的な仕事は封印。
いきなり接客業、サーフショップのスタッフにチャレンジ。
慣れない仕事というだけでなく、英語での接客。
お客様を怒らせてしまう事も度々ありましたが、
お客様に対する言葉遣い
思いやりの心
出会えたことへの感謝の気持ち
たくさんの事を学びました。
そして何よりも、お客様から笑顔で言われる
「Thanks mate!」「ありがとう!」が、
いつも私の心を満たしてくれました。
他にもオーストラリアでは、当時の日本ではまだまだ馴染みの浅かった、
自然保護や環境問題
動物愛護
についても影響を受けました。
「台湾」を皮切りに、
「オーストラリア」、
「ニュージーランド」、
「インドネシア」、
をめぐった一人旅。
1年と2ヶ月の短い旅でしたが、見るものすべてが新しく、すべての出会う人が私に刺激をくれました。
この旅の数々の貴重な経験が、今の私をつくり上げている。
このことは間違いありません。
全日本選手権出場
全日本選手権出場
旅に出る時に、色々な人生経験を積むことと合わせて望んでいた、サーフィンの上達。
恵まれた環境で、たくさんの時間も費やせたため、自分でも実感できるほどに成長できました。
帰国後は、昔からお世話になっていたサーフショップから、サーフボードなどのギアのサポートもいただけるように。
34歳の時には夢に見ていた、全日本サーフィン選手権への出場も果たすことができ、夢のひとつが叶いました。
目に飛び込んできた2つの惨状
目に飛び込んできた2つの惨状
プライベートでも満たされ、順調な日常を過ごしていたある日。
2011年2月22日 ニュージーランド クライストチャーチ地震
普通は異国の災害は印象に残りにくいかもしれませんが、
私にとってクライストチャーチは、一人旅で2週間ほど滞在した思い出深い街です。
ガーデニングを楽しむ人が多く、花と緑に囲まれた街並みが本当にきれいで、
ポストカードを購入して、両親に送った程に感動した街でした。
しかしテレビを通して目に入ってきたのは、全く異なる街の風景。
多くの石積みの歴史的建造物が倒壊し、地面は亀裂だらけ・・・
数年前に自分が実際に立っていた場所だけに、私には衝撃的でした。
それから僅か17日後。
2011年3月11日 東日本大震災
私は新築現場の2階で作業中でした。
「気を付けろ!!地震だ!!」現場に響く声。
それ程大きな揺れではなく、ホッとしたのも束の間。現場隣りの長屋に仮住まいしていたお客様が、
「大工さん大変だよ!!テレビ観てくれ!!」
長屋に上がらせてもらい、テレビの前へ。そこには現実とは思えない、まるで映画のような映像が。
その日から毎日流れるテレビの映像は、目を疑うほどの信じ難いものでした。
傾き押し潰された建物
崩壊した橋や道路
そして必死に生きる人々
これが今を生きる日本で起きている事とは思えず、テレビの前で呆然と続報を待つ事しかできませんでした。
連続して発生した2つ大きな地震。
自然の力の前では、人間が作り出した文明はこんなにも無力なものなのか
そう思い知らされ、
生きていることは当り前の事ではないと痛感させられました。
そして同時に、
「建物の役割は、そこに暮らす家族の命と財産、そして安心した生活を守ることではないのか」
と、建築という仕事の重要性を再認識しました。