HISTORY 代表 遠藤 幸輔
生い立ちと家づくりへの想い

#01 誕生

遠藤家の次男として誕生。
遠藤家の次男として誕生。
小さい頃
昭和52年6月20日
遠藤家の次男として誕生。

両親は産院から、「お腹の子は女の子だよ」と聞かされていたそうで、産まれてきてビックリ!(笑)
男女を判別する医療技術は、その頃はまだまだだったようですね。
名前は「幸子」(ゆきこ)に決まっていたので、急きょ「幸輔」(こうすけ)に変更されたそうです。(笑)
当時の家業であった遠藤建築店は、祖父が代表を務め、父と叔父と数人の職人がいる大工集団の会社でした。
自宅は1階が作業場で、2階が住居スペース。

子どもの頃の私にとっては退屈しない環境で、いつも遊んでくれる職人のお兄ちゃん達と、無限にある積み木。
触る事が許されていなかったからか、魅力的に輝いて見えた、たくさんの大工道具や電動工具。
作業場を走り回ったり、作業台に上ってジャンプしたり、かくれんぼで資材の中にかくれたり。
怒られる事もたくさんしましたが、好奇心を刺激してくれるすてきな環境でした。

この頃に遊んでくれた職人のお兄ちゃん達の中には、
後に私が大工の基礎を学んだ親方や、今も一緒に働いている職人さんもいます。
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父親は、「子どもは外で遊べ」という人でしたので、
一世を風靡したファミリーコンピューターは家にはなく、

・スケートボード
・ローラースケート
・水泳
・ソフトボール
・バスケットボール
・サッカー
と、父親の期待通りに、
体を動かすのが大好きな子どもに育ちました。
子供が外で遊ぶ様子

#02 幼少期

サッカーに夢中だった少年時代
サッカーに夢中だった少年時代
特にサッカーには小学校から高校までの約10年間、情熱をそそぎ込み、
たくさんの良き友と多くの経験、そして様々な学びを得ることができました。

高校時代の最後の大会では、
「県ベスト16」
という結果を残こすことができ、サッカーの良い思い出になっています。
そんな典型的な体育会系人間でしたので、勉強の成績はというと、ご想像通り残念な感じ・・・
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それでも人生で一度だけ、テストで満点を取ったことがあります。
それは5教科で唯一嫌いじゃなかった数学。
建築の基礎は数学なので、これは遺伝的な才能だったのかもしれません(笑)。

でも体育・技術・家庭科・音楽の実技4教科はとても得意だったので、これも今につながっているのだと勝手に思っています。
「大工の仕事は好きじゃなければ続かない」「自分の好きな事をやればいい。」
が口癖だった父親。

高校進学の進路を決める時、家業を継ぐ気は無いものの、自分の将来をイメージする事ができずにいた私。
両親になるべく負担をかけたくない、そんな理由で、公立で給食が出る学校だった、浜松工業高校の土木科に進学することに。

片道1時間、往復34キロの自転車通学。
永遠と続く登り坂。土砂降りの雨の中を漕ぐ自転車。数えきれない回数のタイヤのパンク。
通学は想像以上に過酷で、「学校に行きたくないな」と、思う日もありましたが、
なんとか3年間通い続け、今となっては、全て楽しい思い出です。
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#03 青年期

かっこいい大工の姿にあこがれて
かっこいい大工の姿にあこがれて
高校3年生となり、進路を真剣に考える時期。
自分の好きな事をやればいいという、父親の言葉も頭に浮かび、
自分は何をしたいのか?と、18年の人生を振り返り、色々と考えました。

そして導き出した答えが、「大工になる」

高校3年間で勉強した土木も、「地図に残る仕事」で魅力的でしたが、
もっとお客様に近い場所で仕事がしたいという思いと共に、幼い時からいつも見てきた、

木の匂い溢れる作業場で働く職人の姿
上棟式で真剣な眼差しで家を建てている職人の姿を思い出し、

自分もあんなかっこいい大工になりたい!
と素直に思ったからでした。
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当時の遠藤建築店は、住宅の施工と管理を行う会社で、主に設計士からの仕事を請け負う工務店でした。
父親も叔父も根っからの技術屋の職人で、施工には絶対に妥協を許さない人。

そんな父親に、「大工になりたい」と伝えると、
「ウチに入ると甘えが出るから、外で最低7年間は修行してこい!」

そう言われ、父親が紹介してくれた親方の元へ、選択の余地なく就職先が決まったのでした。
昼は働き、夜は学校へ
昼は働き、夜は学校へ
就職先が決まり、大工を目指す事になった私でしたが、
これからの時代、技術だけで生きていけるだろうか?
本気で建築を志すなら、裏付けされる根拠と建築知識が必要じゃないだろうか?
そう思った私は、仕事をしながら建築を学べるところがないか、学校の先生に相談をしました。

すると、
ウチの高校の夜間の定時制なら社会人も通えるよ。建築を学べる2年間の専修コースがあるから受験してみたらどう?」
とアドバイスをくれたので、その場で受験を決意。

そして無事に試験に合格。
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1995年の春、大きな夢と目標を持って社会人デビュー。
昼間は大工として現場で働き、夜間は浜松工業高校の定時制で建築を学ぶ日々。

就職先の親方は、
「仕事は教えてもらおうとするな!盗め!」「お前は不器用だ!常に人より努力しろ!」
が口癖のとにかく厳しい人。

半人前の自分が何か言えば、怒鳴られるのが当たり前。
就職して3年間、受け答えは「はい」の一言だけ。
時には失敗して、大工道具で頭を叩かれた事も。
今では本当の親のように慕ってますが、修行時代は本当に大嫌いで、いつか仕返ししてやろうと思ってました。(笑)
定時制の学校は20人程の同級生がいましたが、全員が自分より年上。
建築の授業はもちろん勉強になりましたが、人生の先輩達との休み時間の話しも、
授業と同じくらい社会勉強になったのを覚えています。

日々の暮らしは、朝7時30分には現場到着して仕事。
仕事が終わってから学校に行き、毎日帰宅すると22時。
そこから晩ご飯を食べ就寝。

友達が大学生活を楽しんでる時も、私は朝から晩まで建築漬けの毎日。
一番遊びたい年頃なのに、友達と遊ぶ時間はまったく無く、とても寂しく辛い思いをしました。

それでも、職人の技術と建築の基礎を学んだ大切な時間だったと、今では思っています。
修行を終え、遠藤建築店へ
修行を終え、遠藤建築店へ
2002年4月。
当初の約束の7年間の修行期間を終え、25歳で遠藤建築店に迎え入れてもらえました。
夜間の建築科に通っていたおかげで、23歳で二級建築士の資格を取得し、修行で大工としての基礎もできていました。

けれども大工は本当に奥が深い職業です。
引き続き父親の下で3年間の修行。
・和室
・階段
・墨付け
・手刻み
・丸太の墨付けと刻み

大工の修行も気が付けば10年。家一棟を難なくまとめる事もできるように。
修行をしている様子
しかし、28歳になった自分を見てふと、

「自分の人生、これでいいのか?」 と思うように・・・・・・
広い世界が見たくなり
広い世界が見たくなり
ずっと浜松市の南区で生まれ育った私にとって、海はいつも身近にあるものでした。
休日の過ごし方は、ほぼサーフィン。
サーフィンでは、サーフトリップと言って、良い波を求めて国内外に旅に出る事が普通です。

サーフィン仲間と話をしていると、
「インドネシアには船に乗って行くポイントがあって、波すごい良かったよ〜」
「街を走ってるバイクの数がすごいんだよな。」
「オーストラリアには、パドリングで渡って行く無人島のポイントがあって、人が少なくて最高だったよ~」
というような、海外の話題になることもしばしば。

そんな話ばかりが耳に入ってくると、ずっと実家暮らしで外の世界を知らない私は、
自分はなんて狭い世界に生きていて、小さな人間なんだろう・・・
そう感じてしまうことも度々あったのです。

いろんな国に行ってみたい
海外で生活してみたい
経験値を増やしたい
サーフィンも上手くなりたい

気持ちが抑えられなくなった私は、両親や周りの反対を押し切り、海外に一人旅に出る事を決めたのです。
期待と不安でいっぱいの中、オーストラリアに旅立ちました。
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異国の地で一人暮らし
異国の地で一人暮らし
人生で初めて賃貸アパートを契約したのが、オーストラリアのゴールドコーストだとは、
自分でも想像していませんでした(笑)。
炊事・洗濯・掃除など、家事をする事も初めての経験。

暮らすためには仕事も探さなくてはいけません。
もちろん色々と経験をすることが目的の旅なので、大工的な仕事は封印。
いきなり接客業、サーフショップのスタッフにチャレンジ。

慣れない仕事というだけでなく、英語での接客。
お客様を怒らせてしまう事も度々ありましたが、
お客様に対する言葉遣い
思いやりの心
出会えたことへの感謝の気持ち
たくさんの事を学びました。

そして何よりも、お客様から笑顔で言われる
「Thanks mate!」「ありがとう!」が、
いつも私の心を満たしてくれました。
異国の地で一人暮らし
他にもオーストラリアでは、当時の日本ではまだまだ馴染みの浅かった、
自然保護や環境問題
動物愛護
についても影響を受けました。

「台湾」を皮切りに、
「オーストラリア」、
「ニュージーランド」、
「インドネシア」、
をめぐった一人旅。

1年と2ヶ月の短い旅でしたが、見るものすべてが新しく、すべての出会う人が私に刺激をくれました。
この旅の数々の貴重な経験が、今の私をつくり上げている。
このことは間違いありません。
オーストラリア
全日本選手権出場
全日本選手権出場
旅に出る時に、色々な人生経験を積むことと合わせて望んでいた、サーフィンの上達。

恵まれた環境で、たくさんの時間も費やせたため、自分でも実感できるほどに成長できました。
帰国後は、昔からお世話になっていたサーフショップから、サーフボードなどのギアのサポートもいただけるように。

34歳の時には夢に見ていた、全日本サーフィン選手権への出場も果たすことができ、夢のひとつが叶いました。
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サーフィンをしている画像
目に飛び込んできた2つの惨状
目に飛び込んできた2つの惨状
プライベートでも満たされ、順調な日常を過ごしていたある日。

2011年2月22日 ニュージーランド クライストチャーチ地震

普通は異国の災害は印象に残りにくいかもしれませんが、
私にとってクライストチャーチは、一人旅で2週間ほど滞在した思い出深い街です。

ガーデニングを楽しむ人が多く、花と緑に囲まれた街並みが本当にきれいで、
ポストカードを購入して、両親に送った程に感動した街でした。

しかしテレビを通して目に入ってきたのは、全く異なる街の風景。
多くの石積みの歴史的建造物が倒壊し、地面は亀裂だらけ・・・
数年前に自分が実際に立っていた場所だけに、私には衝撃的でした。
目に飛び込んできた2つの惨状
それから僅か17日後。
2011年3月11日 東日本大震災
私は新築現場の2階で作業中でした。

「気を付けろ!!地震だ!!」現場に響く声。
それ程大きな揺れではなく、ホッとしたのも束の間。現場隣りの長屋に仮住まいしていたお客様が、
「大工さん大変だよ!!テレビ観てくれ!!」

長屋に上がらせてもらい、テレビの前へ。そこには現実とは思えない、まるで映画のような映像が。
その日から毎日流れるテレビの映像は、目を疑うほどの信じ難いものでした。

傾き押し潰された建物
崩壊した橋や道路
そして必死に生きる人々

これが今を生きる日本で起きている事とは思えず、テレビの前で呆然と続報を待つ事しかできませんでした。
連続して発生した2つ大きな地震。
自然の力の前では、人間が作り出した文明はこんなにも無力なものなのか
そう思い知らされ、
生きていることは当り前の事ではないと痛感させられました。

そして同時に、
「建物の役割は、そこに暮らす家族の命と財産、そして安心した生活を守ることではないのか」
と、建築という仕事の重要性を再認識しました。

#04 独立へ

お客様の不安を解消するために
お客様の不安を解消するために
気が付けば30代半ばになっていた私。
その時点でも父親は厳しく、
「息子だからといって簡単に会社を継がせない。会社を継がせるのに相応しい人間に継がせる。」
そんな考えを持っていて、一向に「代替わり」の話は出ません。

大工という仕事は、与えられた図面を形にする、やりがいのある仕事。
でも自分は大工としてだけではなく、一から家の計画や設計をし、お客様に直接提供できる工務店になっていきたい。
多くの建築会社の大工を経験してきた中で、品質の高い家づくりをお客様に提供できる会社を作っていきたい。
そんな想いでくすぶっている日々。
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まずは今できる事を精一杯やっておこう。
そう思った時に出てきた課題が、住宅ローンでした。

家づくりとは、50年・60年先まで続く暮らしをつくる、つまり人生設計そのもの。
お客様に安心して家づくりをしてもらう為には、住宅ローンの知識が必要だと思うようになり、
徹底的に勉強を重ね、住宅ローンアドバイザーという資格を取得しました。

しかし、資格は持っているだけでは意味がありません。
建てた家により、毎月暮らしにかかるお金が決まり、メンテナンスにかかる費用も決まる。
建築のプロ目線で住宅ローンの話しができるよう勉強を重ね、今ではお客様により安心して、家づくりをしてもらっています。
今までの人生で多くの人達に出会わせていただきました。
人と人とが出会う事は決して偶然ではない
だからこそ、
「出会った方にとって自分は価値ある存在になりたい」
そう願っています。
工事画像
住宅建築の役割はなんなのか
住宅建築の役割はなんなのか
お客様に直接家づくりを提供する会社にしていきたい。
そう考えている中で、日本において住宅建築の役割は何なのか?
悩んだ時期がありました。

そんな時、海外生活の中で出会った建築家が教えてくれた、それぞれの国の建築思想や、実際に暮らした経験を思い出します。

温暖な気候で豊かな自然が身近なオーストラリアでは、1棟ずつの土地が広いため、
室内と屋外のつながりの動線を考えた設計が多く、リビングと屋外デッキをつなぐ開放的な空間が、
人と自然の距離を縮めていました。

ニュージーランドは日本と同じ四季のある国のため、断熱・気密どの性能にこだわり、
光の取り入れ方などが工夫されていて、厳しい気候の中でも快適に暮らせる設計をしていました。

南国のインドネシアのバリ島はリゾート地のため、世界中の近代的なデザインが集まり、
その中でも伝統的なバリ島デザインとの調和が特徴的で、建物ひとつひとつが個性を持ち、
街を歩いているだけでも気持ちが上がる場所でした。

どの国の建築も、その国の気候や風土にあった建築手法を用い、
単に「住める家」ではなく、「安心して快適に家族が仲良く暮らす」という、暮らし方を前提にした住宅設計により、
住宅建築が人の生活に寄り添っている事を思い出します!


そこから導きだした家づくりが、

地震から家族の命と財産を守る高耐震の住宅

日本という国の気候や風土にあった設計手法の住宅建築

これからの日本を考えた間取りによる暮らし方の提案

暮らしているだけで気分の上がる、住む人らしいデザイナーズハウス


これを全て叶えた暮らし方の提案こそが、私達がお客様に提供して、恥ずかしくない家づくりなんだと気が付いたのです。
決して変わることのない「家づくりへの想い」
決して変わることのない「家づくりへの想い」
2018年
建築の業界に入り22年の歳月が流れ、ちょうど私が40歳になる年に、
3代目 遠藤建築店代表に就任

代表に相応しい人間になったと、父親も認めてくれました。
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世の中はいつも常に変化しています。
家づくりも例外ではなく、家に対する意識も多様化していると感じてます。
それでも決して変わらないこと。
それは私たちの家づくりへの想いです。

“ Building Your Smiles “
「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」


これが私たちが提供する”価値”であるという事です。
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そして約85年にわたって、弊社を育ててくれた浜松というまち。
海・山・川・湖に囲まれ、豊かな自然と都会が混在する、どの街にも引けを取らない美しいまち浜松。
これから先も、浜松が元気で美しいまちであるように
そう願って地域に貢献することも、地元企業である私たちのミッションです。

変わり続ける時代に決して変わらない想い。
有限会社 遠藤建築店は、
これからも地元を愛し、常に挑戦し続ける会社です。
代表画像
有限会社 遠藤建築店
代表取締役 遠藤幸輔
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SPECIAL BOOK PRESENT

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【受付時間】9:00〜18:00(定休日/水曜日・年末年始・GW・夏季休暇)